理解が早まると
理解が早まると
今宵は新月。心身ともに調子が良いのです。治ってきた安堵。11月からこの方、体中どんちゃん騒ぎでしたから。南先生から理解が早まると、修復も突貫工事になりますと伺って、しんどくてもへっちゃらさと強がっていましたが、内心このまま歩けなくなったらどうしよう?なんて不安もよぎり・・・けれどもちゃんと痛かったところが痛くなくなって、突貫工事の大修復は本当だった・・・「その時が来る」のを待つ。これが今のところ、人生のテーマであります。
理解が進むと突貫工事っていうのは、やはり身体のことだけでなく、心、特に記憶、嫌な記憶、心の重しになっている記憶、これが浮かび上がってきて、理解納得の後、洗い流している・・・
というのも幼年期に幽体離脱して、神社の大きな欅の上を飛んでいたことがあったのですが、その内、あの欅神社へもう一度、行ってみようと思っていました。脚が痛かったので、こんな状態じゃ当分行けないなぁと思っていましたが、ふと思いついてGoogle Mapでその神社を検索してみました。すると、あ?欅がありません。あの大きな欅が!? 神社は丘陵地帯を切り開いた敷地に祀られていて、脇の坂道沿いに欅が立っていたのです。坂の斜面にそって、根っこが1mくらい地表に露出していて、そのうねうねとした根っこでしっかり地面を掴んでいる様が壮観でした。なので欅の周囲は解放されていて、神社の境内と道の境には何もなかったのに、今やフェンスで閉鎖されています。4階くらいの高さがある欅だったのに、あっけなく消えているもんだなぁ。もちろん樹霊を鎮めてから、伐採したに違いありませんが。
そして神社本堂を見ると、御朱印帳流行りも手伝ってか、本堂横に参拝者用の事務所が設けられていました。そこは小さなお稲荷さんがあった場所でした。どうして動物を祀るのか? 疑問が湧いたのも、このお稲荷さんのお陰。周囲の大人に理由を尋ねましたが誰ひとり、きちんとした答えを知らなかったのが不思議だったなぁ・・・二匹ならんだちょっと怖い顔したお稲荷さんたち、祠じまいだ。
思い出の欅神社はもうない。もう行く必要もないと覚った。過去の想いを手放す。晴らせなかった恨みを諦める。すると関節の凝り固まりや歪みも解放されて、局部の痛みも癒される。理解が早まると修復も進んでいくとは、どうもこういう次第のようです。
恋人たちの休息
柔らかい体の上にノッシリ、重い体が上からズッシリ、どちらも幸せというものサ。満たされる想い。癒しの時間。
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