妖精殺し
妖精殺し
初夏の頃、庭に面したフランス窓を、半分開けたままにしていたら、とつぜん異界の使者が飛び込んできた。レースのカーテンの間をどうやってくぐりぬけたのか? 長く透明な翅は音もなくゆらめいて、部屋の中を進む。まるで夢かまぼろしか・・・この光景をずっと眺めていられたら、どんなに素敵だろう・・・そう思った瞬間、一抹の恐怖が私を捉えた。おまえ、私の部屋の奥深く、どこまで飛んで行くつもりかと?
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軽く触れたか触れないか? ハタリ、床に落ちた。わき腹が破れて、傷口から白いクリームような舌が出ている。ああ、もう駄目だ。なぜ外に逃がしてやらなかったのか? ほんの一瞬、心に差した闇が、妖精を殺してしまった。
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妖精・・・? 正体は大きなトンボだ。ほとんど空中に静止するかと思えるように、ゆっくり飛び行く翅の上に、団扇を当てたのだった。都会育ちの私にとって、部屋に飛び込んできた昆虫は不法侵入者。無法モノは殺すのが掟だ。けれども、大トンボのゆらめく翅を間近に見て、この世のものとも思われない美しさ、ああ、妖精ってこんな風に飛ぶんじゃないかという美しい驚き。それなのに殺してしまった・・・。
そのあと、長らく罪悪感に囚われて、神父様に告白した。神父様は若いころ、音楽家を目指していた方だったので、美について話してくださった。(神の御業である)美は計り知れず、ときに恐ろしく感じるものですよと。確かに、私は美に憧れていた年頃だった。諦めきれず、できるなら、あの大トンボに謝りたかった。鬱から抜け出しつつあった私は、少女と大人の中間地点にいた。
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もう、妖精殺しなんて忘れかけていた頃、白秋の詩の中に「青いとんぼ」という作品を見つけて驚いた。だってこう書いてあったのだ。『青いとんぼの飛びゆくは、魔法使いの手練れかな』と。そして最後に『青いとんぼをきりきりと、夏の雪駄で踏みつぶす』と。な~んだ、白秋先生もトンボ殺しだったのかぁ。
じつは自分も、殺しのいきさつを、画文に描こうと試みた。でもさっぱり上手くまとまらない。トンボの美しさ不思議さは、白秋先生の詠う通りであるけれど、アタシはトンボに腹を立てたりはしなかったよなぁ。妖しい美しさに魅了され、恐ろしさのあまり、その美を目の前から抹殺した後悔、あの美しい瞬間を熱愛したにもかかわらず、葬り去った無念。ゆえに懺悔懺悔の想いだったのだ。トンボからの「*許し」なんてないだろうし。こんな風に気持ちが宙ぶらりんだったから、画文は作品として、まとまるハズがなかったのだ。
*当時は人間界と、ほか三界(鉱物・植物・動物)の密接な交流について、今ほど関知していなかった。烏賊(イカ)が私を許した経緯があるので、当然トンボも・・・動物界の命たちは、人間みたいに何百年も怨念を持ったりしないのデシタ。詳しくは烏賊の目玉をご参照ください。
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さてさて、人生は移り変わり、鬱が過ぎて、家族の介護の日々が来た。何が何でも家人が帰天するその日まで、やりぬかなければならない。毎日が苦しかったので、人間力を強化して頂こうと、ご聖体を授かりに修道院の夕方ミサに通った。
夕暮れは、一日の疲れを癒す夜を待つ時間。ここでミサに与れるのは、心身の救いだった。院の前庭には1メートル半くらいの台座に乗った、大きな無原罪の聖母像があって、両手を広げて訪れる人々を、キリストに招いておられるようだった。ミサに与る前、必ずマリア像のところへ行って、しばし黙祷した。
その日も黙祷を終えて、マリア像を仰ぎ見た。おや?小さな赤トンボが、マリア様の心臓の辺りに止まっている。すでに薄暗い光の中、私はトンボを懐かしく眺めた。ありがとう。トンボに言った。ありがとう。少し目頭が熱くなって、妖精殺し、トンボ殺しの罪悪感と悲しみは、そのとき氷のように溶けて行った。
人の想念は石や植物、動物界に影響を及ぼしているという。そして彼らの存在も、人の心の傲慢について、警鐘を鳴らしているのではないか?
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