カマキリ
カマキリ
手を洗ってタオルでふこうとしたら、タオルのヘリから小さなカマキリがこちらを覗いている。すごく小さな茶色のカマキリ。きっと産まれたばかりの赤ちゃんだ。赤ちゃんをつぶしちゃ悪いから、見なかったことにして、私は別のタオルのところへ歩いて行った。そういえば一階で親カマキリを見かけた。廊下の長い壁を、のこのこ伝って歩いていた。当時は庭を藪にしていたから、きっと生態系の保護になって、昆虫や植物の天国だったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
藪を刈って普通の庭にしたら、家の中でカマキリに会わなくなった。ドウガネ(黄金虫)も見ないなぁ。とくに昆虫好きではないけれど、あの糸みたいな脚を精巧に動かして、生きて動いているんだからすごいと思う。
日常の中で出会う小動物(虫や鳥)たちは、ご先祖たちの乗り物だと春水先生から教わったので、そういうつもりで見ている。たとえばテーブルの端を褐色の小さなクモが歩いているのを見つける。「あ、大伯父さんが来た」となる。家の前の道を、憎たらしい顔した黒猫が、こっちを見ながら通って行く。「あ、あれは、おばあちゃん!」そしてカラスは母なのだ。ご先祖たちの魂は、こうして地上の見回りに来る。だからこちらも「あ、大伯父さん、アタシちゃんとやってるよ」なんて話しをする。こうしていれば、あの世とこの世のコンセントが、いつもつながっているということ。もうずっとそうしているから、コンセントはつながっていると実感。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
初夏の頃、昆虫とは印象的な出会いがある。庭に面したフランス窓で、ガラスのところに突如、異形のモノが現れた。と、思ったら?・・・ わ~!大きなカマキリだ。何してるんだろう、こんなところで? 見ていると、イッチ・ニー・イッチ・ニーと、リズムをつけてガラス窓を登って行く。虫の脚には繊毛が生えているから、滑らずによっこらよっこら登って行く。カマを振り振りリズムを取って、なんだかすごくコミカルだ。ずいぶん大きな緑のカマキリだったけど、最近は大きなトンボもカマキリも見かけなくなったなぁ。みんなどこへ行ったんだろう?
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
隣に住んでいた大伯父がフランスで描いてきた窓の絵に、あとからカマキリを描きたしたのを、カンバスからはがしたペラのまま、アトリエの壁に無造作に画鋲で貼っていた。きっと庭で見かけた大カマキリを描いたんじゃないかと、勝手に思っている。
この絵はフランスの思い出と東京暮らしのコントラストだ。カマキリは緑輝く光の中へ飛び立とうとしている。芸術と浪漫の国・仏蘭西のスピリットを見つめる大伯父の化身なのかもしれない。そこまで言うと、饒舌に過ぎる? 大伯父は物静かな人だったから、思い出の窓にカマキリを描き足して、ちょっと後悔したのかも? スーヴニール(忘れ形見)と霊感。いつも眺めていたくて、ポスターみたいに壁に貼ったのかもしれない。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ヨーロッパは緯度が高いから、太陽光が弱くて光が優しい。大伯父は曇り日が一番、光が安定していると言っていたから、窓とかまきりの絵は、そんな曇り日の白い雲をうっすら浮かべて、木々の緑もどこか銀色を帯びたように輝いている。日本の木々のように黒っぽくない。湿度の高い日本では、緑がたくさん水分を含んで、木々が黒く見えるそう。黒が水の色なんて、なかなか深いじゃないか。フランスから見れば日本は南にあるから、強い太陽光をあびてカマキリの緑はいっそう鮮やかだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
大伯父の死後、大伯母が我が家に窓とかまきりの絵をくれたから、私は馴染みの神保町にある画材店で、額装をお願いした。若い女性フレーマーの方たちが、アイデアを出してくださって、納得の仕上がりになった。絵は旅に出たまま戻らない息子みたいなものと、大伯父は言っていたから、額装した絵は、さながらガールフレンドを連れて実家に戻ってきた息子だ。大伯父は静かな口調で彼女に言うだろう「やぁ、いらっしゃい」と。なぜだか少し、照れながら。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
この記事へのコメントはありません。