エーテル考・1
エーテル考・1
暮れから新春(2月3日)まで、内面の大嵐の中にいた。これをしっかり「いんぱるぱぶれ」に描かなくちゃと思いつつ、ビランの両手を掻きむしる夜々を過ごして、痛みにうめいていたのだった。
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どこから始めたものかしら? やっぱりあの霊障から。その瞬間で霊障ではないと書いたんだけど、やっぱりあれは「ココに居てはイケナイ!」の警告だった。
だとすればエーテル体について考えなければ。真我は何でも知っているとか、言っていながら、やっぱりなんも判っちゃいない。本当に自分とつながるには、まだまだ踏み込んでいかなくてはならない。夢の意味合いや直感を、こうだったらいいのにという欲目なしにキャッチできなければならない。それにはエーテル体を通して流出入しているエネルギーの流れについて、もっと学ばなくてはならなかったのだ。
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話をもとにもどすと、どうして霊障の警告を聞かなかったのかといえば、霊的なチャレンジをする、つまり霊障なんかに負けないぞの闘いをする決心をしたからなんだけど、これが全く霊的物質主義だった。
霊的物質主義って何かといえば、今回の場合、他人の空念仏に付き合ってしまったということ。コレじつは以前にもやっていて、その時は雇い主さんが職場で拝んでいる仏壇から憑き物のヴォルテックス(渦巻)が私の上に降ってきて、その数日後、足を捻挫したうえに貧血で失神、救急車で運ばれるというのをやっていた。こういう霊障の経験があるんだから、気をつけなきゃと判っていたハズだったのに、またやっちゃった!
霊障・・・肩に何かがのしかかり、両目が鉛の玉のように重くなり、背中がゾクゾクする寒気に襲われて、得体の知れない不安で心臓がバクバクした。というのが今回被った現象だった
家に神棚を置いたり、お札を立てたりして、人はご利益を神仏に祈願する。それがいけないんじゃない。しかし職場に神棚・お札は、ちょっと違うらしいのだ。なぜなら祈願は心の問題でしょ? ごくプライベートなこと。なので人前で見せびらかすように祈るのは邪道になる。それからパワースポットに行ってお金を払って御祈祷を受けて、悦に入ってるだけなのも空念仏に相当すると解った。私が霊障に遭った職場は、まさにこれだったのだ。
霊的物質主義に気を付けていたのは、私自身がそうだったから。私が近所の修道院へミサに与りに行っていた頃、シスターと一緒に写っている自分の写真を見た時(この時の写真の一枚が心霊写真だった)写真に現れていた自分の顔は「アタシ、修道院によく来ているのよ。シスターたちとも親しいのよ」という驕りだった。愕然として反省したけど、まだやってるわけだねぇ。今回もスピリチュアルに関心のある自分なら、祈願をしている職場にあって、お役に立てるだろうなどと、思っていたのだ! 馬鹿野郎なモニカでした。
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結局「ココに居てはイケナイ!」の警告を無視し続けた結果「ココに居たくない!」の想いは日に日に募り、夜、帰宅すると背中がゾクゾクするようになり、しばらくナリを潜めていたビランが現れ始め、日に日に悪化の一途を辿り、手を掻きむしる日々が始まり、このままじゃノイローゼになる!と、切羽詰まって、年末の土壇場でそこを去った。もっと早く行動するべきだったけど、それを阻んだのは、失業の恐怖だった。
天中殺で先見の明がないと、常々思っていた二年間だったけど、自分をがんじがらめにしていたのは、この恐怖だった。そして恐怖というものが、エーテル体における円滑なエネルギーの流れを、いかに阻害しているか、今回の経験から解ったのだった。
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