ステラとドストエフスキー
ステラとドストエフスキー
20代のステラは言う。好きな作家はドストエフスキー。自分の本当の仕事は、今でも彫刻だと思っていると。そのとき私は、ドストエフスキーの大審問官に、頭をぶつけたあとだったので、ステラの言葉が印象に残った。
大審問官は『カラマーゾフの兄弟』に出てくる挿話で、イエスが再びこの世に現れて、捕まって、殺されないけど、出ていけ二度と戻ってくるなと、教会側から追い出される顛末だ。19世紀の作家ドストエフスキーは、未来を予言していたと言われている。
21世紀の今、なるほど神の語る声はあまりに小さくて、誰の耳にも届くわけではない。それでも声が小さかろうと、声はしてるんだから、聞こえる人が増えれば次元上昇だと、自分は思う者の一人です。神様の喜び燦々パワーは、一瞬たりとも滞りなく、降り注いでいるハズなんだけど、みんな、そんなこと考えもしないで生きている。自分も母が死んだとき、燦々パワーに触れた覚えがあるんだけど、日常のよしなしごとに埋もれているんだよね。
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彫刻家になりたかったイギリス人モデルのステラは、時代にマッチした美貌で成功を収め、幸せな家庭にも恵まれていたのに、去年の暮れ、50歳にして、自ら人生を途中下車。自分が思い描いた方法で創造性を発揮できないまま、人生を費やすって辛いことなんだろうと、改めて考えてしまった。特にファンだったわけじゃないのに、気になってしまったのは、創造性について、思うところがあったから。
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アシュケナージさんを撮影した叔父も、50歳ごろから、カメラを絵筆に持ち替えようとしていた。あ、その前に、ペンに持ち替えて文筆業に向かったんだ。小説家だったお父さんについて書くことから始めたけど、書き上げるのに10年かかったと言っていたっけ。ほかの道で成功してから、さて今度は自分の芸術に専念しよう!…これってすごく厳しいことらしいのだ。
自分の望んだ事と現実の乖離。自分の本当の気持ちと周囲の要求のズレ。いちいち考えている暇なんかない。忙しいんだから。そしてそのまま社会的に成功すると、こんなはずじゃないという自分の本当の気持ちなんか、かき消される。自分でも本当の自分とは? なんて思わなくていい、考えないようにしようって封印する。そうして封印したことさえ心の奥にしまい込んで忘れる。こうして鬱の坂道を転がり落ちて行くことを、今では私、知っている。たとえ封印したところに戻れたとしても、自分で封印を破るのって並じゃない。自分でやったことなのにね。
鬱の人の仙骨

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それでも何とか、次へ辿り着けたら強運の持ち主。今度こそ、じっくり自分の作品を作るぞとなる。そして愕然とする。あまりも自分が何もできないことに。ほかのことに費やしていたあの時間を返してくれって思う。でも、もう遅すぎた。とても取り返せないと思ってしまう。こうして今度は、絶望の淵を真っ逆さま。でも、崖っぷちで踏みとどまるんだよ。才能? そんなこと言ってないで、やりたいことをやるんだよ。こんなはずじゃなかったなんて思うのは、もうやめる。こうして自分との対話が、改めて始まる。
これで良かったんだと自分に言い聞かせる。そうそう、周りも許す。南先生が書いておられた「自他ともに許す」と。許しはネガティブなエネルギーの浄化になると。遠隔治療を受けている私は、過去から今まで、抱え込んできた負の重荷を降ろそうと、自己観察を続けているところ。
手放せば、許されている。けれども許しを実際に生きなければ、手放したことにも、許したことにもならない。これが理解ってことなんだけど、はてさて、ここで止まっている。私のネガティブなエネルギーは手先、足先そして頭頂から侵入していたと、南先生に教えて頂いたので、メビウス運動中、ひざ下から足の裏まで意思気するようになった。そうしたら、足の裏がつったりして、あ、動いている。きっとネガティブなエネルギーが出て行くところだと、励ましている。
そこで足の裏から30㎝くらいのところにあるというアース・スターと言われるエネルギーポイントのことを考えるようになった。頭の上30㎝にはその名もステラ・ゲートウェイってポイントがある。ステラが開いているなら、聖人画なんかに描かれている後光になるってところだよね。
メビウス運動中、集中してくると眉間に意識が行って、そこからふ~っと、抜けて行くものがある。みぞおちからは「猫みたいなもの」が剥がれ落ちた過去があるので、そこを開いて手放そう、解放しようと念じている。とにかく、もう鬱になったり、絶望することからは卒業して、この人生は天寿を全うしなければと思う。私も前世で、人生、途中下車した覚えがあるから。

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