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鬱の原因

アストラル体3

鬱の原因

鬱は原因を究明できれば治る。私はそう信じている、なぜなら自分はそうして治ったから。原因を知ることが鬱に効く何よりの薬だ。しかし、その特効薬を自力で見つけるのは、やはり大変だった。

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人生に向かって漕ぎ出す15歳から22歳くらいの間、私は鬱だった。鬱になる人は、その原因を心の奥深く隠している。自分でも判らないほど奥深く。そうしなければ、辛い現実を生き抜けないからだ。自分で自分の本心を誤魔化して、いつの間にか自分でも本心が判らなくなる。そうやって生きているうちに鬱になる。けれども、どんなに巧みに誤魔化しても、本心はそこにある。本心を認められればいいけれど、なかなかできることじゃない。どうしてか?私の場合、家族なった人たちが嫌でたまらなかったことが、原因だったと突き止めたけれど、最初は自分で自分の本心が、認められなかった。自分はすごく大事にされていると、解っていたから。5歳になったころには、身体も普通になって、飛んだり跳ねたりして遊んでいたし、祖母も母も料理が上手だったから、美味しいものを口にして、おしゃれをして、やりたい習い事は全部していた。それなのに、どうしてこの優しく一生懸命な女性たちが嫌なのか・・・? もう、お気づきのことだと思う。父と祖父の話が全くないことに。問題はそこだったと、大人になって解った。

我が家は祖父母、両親ともに離婚していた。そして私の人生には、全くと言っていいほど、男親がない。祖母も母も離婚後、全く夫たちを無視して生きていたからだ。私は父の顔も覚えていないし、祖父には会ったこともない。(祖父の方も会ったら、情が移ると思って、牽制していたらしい。)私自身も祖父や父がいないことに、違和感がなかった。というのも、独身寮の寮母をしていた祖母と一緒にいたおかげで、寮には20人くらいの男性がいた。単身赴任のお父さんたちもいたから、私は20人のお兄さんや伯父さんを持ったような娘だったのだ。という環境もあって、男親がいないという引け目を感じる機会も失っていた。

さて、話をもとにもどすと、我が家は二代続けて、離婚している。ここには、男と女の闇があった。祖母は祖父を愛していなかった。父は母を愛していなかった。この男女の不仲と嫌悪が、私の中に遺伝していた。私は子供頃から、とても母が嫌だった。傍らにいるだけでぞっとしたのを、よく覚えている。離婚する間際、父もこんな風に母を疎んじていたのだろうと思う。今でいうDV夫になりかけたところで、祖母は、娘を死体で引き取るのは嫌です。何もいりません。子供だけくださいと言って、父に離婚を切り出したそうだ。

私はうすうす感づいていた。母はどうも普通の人と違うと。私は祖母に、母がどうして、いつもやることがあまりに遅く、気が利かないし、やることは間違えるし、こんなに頼りにならない人間なのかと、疑問をぶつけ続けていた。私が17歳の時、つい祖母は白状した。あの人は普通の人じゃないのよと。母は知能指数が低かったのだ。6から白痴だと言われたけれど、母は7で、11か月も祖母のお腹にいたのに、人の半分のサイズで生まれて、未熟児ではなかったのだと。私は驚きもしなかった。そういうことかと、裏が取れた思いだった。

祖母は母を身ごもったときに、悪夢を見ていた。体中に羽虫がびっしりとたかっていて、手ではらいおとすと、ザラザラザラっと下に落ちるけど、一向に払い落とせない。体中びっしりの虫。虫唾が走るとはこのことだろう。相思相愛でない男女の和合は辛いものだろう。愛していない男の子供をみごもるのは、やりきれないことだろう。そして嫌悪の中で起こった精子と卵子の核融合の波動につられてやってくるのは、母のような人だろう。弱い子供を授かった23歳の祖母は、担当の女医さんから、普通の子供と同じようにお育てするのが、この方の幸せなんですよと、励まされて「よおし!」と、決心した。私が母にバラすまで、母は自分の頭のことを全く知らなかったのだから、祖母の決心はひとかたならぬものだったのだろう。 父と母の結婚に7年、反対し続けた祖母の気持ちもこれで判る。

可哀そうな父は、母の秘密を知らないまま結婚して、やってらんねぇに、なったのだろう。そして父の方も、ちょっと変だった。母と結婚する前もした後も、母を自分の親元へ同伴することがなかったのだ。両親の結婚生活はたった2年で破局を迎えたから、仕方ないと思っていたけれど、祖母の死後、一枚もないと聞かされていた父の写真を発見した。明治神宮で、父と母が結婚式を挙げている日の一連の写真だ。二人並んだ両親はにこやかだった。けれどもまるで、ママゴト夫婦だ。さらに写真を繰ると、なるほど父方の親族にご両親の姿はない。親代わりと聞いていた小柄でメガネをかけた真面目そうなお兄さんと、留袖姿が大女のお姉さんしか写っていない。お兄さんに比べると、父は背が高くて、当時の大和男子にしては愛想がいい。父はきっと遊び人の不良で、勘当されていたんじゃないか?ふとそんな気がした。これらの写真は、祖母がお嫁に行く時に持たされたという桐の箪笥の一番上の引き出しに敷かれた新聞紙の下に、隠されていた。新聞紙は両親が結婚した年のものだった。ショックだった。

祖母は父のことを男コウノトリと言っていた。私を母のもとに落として、それっきりだったからだろう。それでも私は、父と5歳の時、そして25歳の時の2回、電話で話をしたことがある。父の名前は二郎だから二回でいいんだと、洒落にしておく。

これだけの想念を、人は心の中にため込んでいる。仙骨にため込んでいると、言った方がいいかも知れない。自力で引っ張り出せたのは、仙骨調整のお陰だと思う。きちんと整理して考えることができたので、どうやら私の鬱は快方に向かい、再発していない。こうして私の潜在意識と顕在意識は、今のところ一致している。人生はまだまだ続く、どこまでも?

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