メランコリー
メランコリー
つくづく思うのである。鬱になるとか、絶望するとか、これってやっぱり自己満足を追求しすぎるからじゃないかと? もちろん満足することは大切だ。自分の存在理由に自信を持つことは健康的だし、自分に自信があれば人を尊重できるはずだと思うし。
そこで自分の絶望を振り返っても、たかだか2歳で、こんなところでは生きられない。それなら、もと来たところへ戻ろう(死んじゃおう)というのも、せっかく生まれた時は張り切っていたくせに、早合点というか、おっちょこちょいというか。その性根にあるのは自分の思うようじゃないと気が済まない、わがままな性格が祟っていたと。
そして思うのである。カルマって宿題なんだなぁと。カルマ=業(ごう)なんて言うと、何だかひがみっぽく聞こえるかもしれないけど、この世に生まれてくるのは、魂の課題をクリアするためだと、波動修正していたら判ってきたから、ちゃんと生きている内に宿題をやり終えて、この人生から次へ行くのがスジだ。だから死ぬのは、いわば進級だったのだ。
というのも、介護を終えてみると、認知症って、この世からあの世へ人生のフォーカスが移行していくプロセスで今までと調子が変わっていくことだったんじゃないかと、思われた。だから、そういう家族を看ていたことは、自分のカルマを消化するために、すごく必要なことだったんだと。そうでなければ、こんな風に自分を見つめ直すことは、なかったかも知れないと思えるから。
それで祖母も母も、祖父も父も、つまりご先祖たち、みんな今や進級して、あの世で修業を続けているんだと感知できた。目に見えないことだから、初めの一歩は感知しかない。それも恐る恐る。えっ?そういうことなのって、確信がもてないんだけど、そのうち何だか、はっきりしてくる。そしてもう、そうとしか思えない、いや、そうなんだって実感になる。こういうことは理屈じゃない。波動でバツーンと来る。
この世とあの世。世の中、目に見えないものに支えられていると(認識は不安定のまま、一抹の不安も抱えながら)確信へに進んで行く。もちろん一進一退しながら。
この世とあの世の間、天と地の間に自分がいる。自分勝手な自分がいる。自己満足ばかり追求してきた自分がいる。自画自賛という言葉通り、画廊で個展をしていた時分の自分は、自己満ばかり追求していた。自分は絵を描いて、世の中に奉仕しているつもりだったけど、違った。その証拠に、あの時代のすべてが過去の中に葬り去られている。当時の想い、記憶、人付き合いのほとんどが、今の私とつながっていない。先日、ひよこ天使を引っ張り出して、つくづくそう思った。
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私は曇り空が好きだ。太陽は昇っているんだけど、明る過ぎず、暗すぎずメランコリックだから。失恋したときのように、友が去って行ったときのように、悲しみや苦痛を退けずに向き合うと、メランコリーは良き導き手になる。文学的でロマンチックな優しさが、曇り空にのぼって行って、垂れこめた雲の向こうに輝く光の元へ、辿りつくのが見えるから。
緑の薔薇の花言葉は「希望を持ち得る」
垂れこめた雲の向こうに、光があることを忘れない。
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