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分身

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普通、普通であること。これが大変、幸いなことだと解ったのは、いつだったか? 介護が始まる前? あの頃、私は幸せに絵を描いていた。企画展が次々と立って、自分の絵が世の中に認められて行くだろうと、期待に燃えていたのだ。しかし間もなく、創造の泉は枯渇する。私の人生は介護へ突入した。ボケていく祖母は、自身の不安の中で、私に付きまとうようになっていった。もはや私がひとりになれる時間はなかった。彼女は自分の不安を外へ投影する人だったのだ。体が丈夫な人は自分の弱さを受け入れることが得意ではない。そのうえ感情をきちんと分析するすべを知らない祖母は、自分の不安と向き合うことができなかった。飼い猫がもう死ぬに違いないと言い出す。でも猫は口実で、自分の不安を投影しているだけなのだ。この手の現象は、今や一種の老人性の鬱として知られているかも知れない。当時の私にはよく判っていなかったけれど。

ボケというのは、その人のまことの姿を露わにする。その人が人生の中で、向き合わず、長らく押し込めてきたものが、ついに姿を現すということ。だから、あの介護の日々こそ、私の「家」というものの、まことの姿だった。その中で、私は「男役」を長らく演じていた。私は息子であり、夫であり、祖父や父という男親の幻影を投影された娘だった。夫のいない祖母や母は、無意識に私を男にしていた。そこには彼女たちが夫を嫌っていた憎悪の反面としての愛があった。本来ならば素直に夫たち向けられる愛が歪んで、娘に息子の、夫の、男として仮面をかぶせていたように思える。そして私の中にも、自分が男だったら、彼女たちにもっと優しい気持ちで接することができるかも知れない、という歪んだ希望があった。なぜなら、私は彼女たちを嫌いだったから、そういう自分を覆したかったから。けれどもその欲求は空しかった。彼女たちが夫たちを嫌ったように、私は彼女たちが嫌いだったというのが真相だったから。

彼女たちがもう、この世にいないくなった時、私は自分の男役は終わったと、実感した。マニッシュな装いをして生きてきたけれど、それを止めた。髪を伸ばして髪飾りを付け、花柄の小物を手に取るような自分へと変わっていった。こんな風に女性らしい所作で生きていても、いいんだと思うようになった。

私は考える。男性の中には女性性があるし、女性の中には男性性があるから、男女の仲が上手く言っている場合、二人に宿る男性性と、女性性の息があっているのだと。実際、古代神道では、男性の中には女の魂、女性の中には男の魂が宿っていると説いている。そして魂のレベルでは男と女は一致しているんだろうと、私は想っている。女性には男性の守護霊が、男性には女性の守護霊がついているというのも、男性は女性に興味があり、女性は男性に興味があるのが、自然なことだからと、春水先生は話しておられた。

男と女の一致。それはこの世における魂の体験として、理解として、魂の旅の中で蓄積されていく。人々は感情の泥沼の中で、あるいは慈しみという繊細な体験の中で、二重の性を生きる。目には見えないけれど、今、授かっている肉体と反対の性別をも生きる。それは異常なことではなくて、そうやって男と女、双方の理解が進んで一致する。ジェンダーレスという考え方が広まっているのも、世の中の人が、こうした魂の本当の姿を理解するための序章だろう。

私の分身である私の中の男性は、介護を通して感情の泥沼を生きた。そして、その泥を洗い流したのは、看取りの清水だった。清水とは、この世を旅立った家人や先祖たちが、今も魂として修業を続けていること。彼、彼女たちがこの世を見守っていること。だから天国への直通電話もかけられることが、実感できたこと。家人の看取りは、あの世とこの世が出会うための道を開いた。そうして今、自分の中の男性的な側面を誇示する必要は無くなって、私は私の分身である男性性と一致して、肩の力抜いて自分として生きている気がしている。

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コメント

  1. アバター
    • 松本 涼
    • 2020年 6月 27日

    家族には、逃れられないからこそ来る特殊な関係性を経験する要素がある。と、ぼくは思っています。
    犠牲の経験は家族ですること多いと思います。ぼくの家でもそれはありました。
    犠牲者も辛いけれど、犠牲者を出したことの重さを背負っていきるのも楽ではない。
    でも、その経験によって育つことができるのではないかと、この頃考えていました。
    モニカさんに犠牲という意識があったのかどうかわらかないのですが、
    家族という関係性から豊かな学びがあったことを今回の文章から感じました。

  2. 玉野 モニカ

    おお!鋭い言葉が来ました。涼さんの視点はいつも穿っているのでした。
    「犠牲を奉げます」と、祈るんですが、これは当然のことのようです。
    万人に敷かれた摂理といいますか・・・。
    そうでないと、そうであるように事態がなっていく。そうして学びがある。
    おっしゃる通り、家族間ではなおさらでしょうね。でもそういうことを、つい
    忘れていたりするのも事実。それで常に犠牲を奉げる意識を刷新してい行く。
    きっと、そういうことですね。

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