ドッペルゲンガー
ドッペルゲンガー
シュウテイ先生の息子さんも、やはり医者だった。こちらシュンプウ先生と言う。私はこのシュンプウ先生のようになりたいと、思いつつ生きている。どういうことかと言えば、シュンプウ先生、死の三日前にドッペルゲンガーを見ていたのだった。

家路を辿るシュンプウ先生、我が家が見えてきた一本道で、向こうから自分が歩いて来るのに出くわした。もう一人の自分は、シュンプウ先生より先にふいっと家に入って行ったと言う。それを見て先生は覚って、家人に告げた。「自分は三日後に死ぬだろうから、そのつもりで」と。果たしてシュンプウ先生は、三日後に亡くなったのである。
私も自分の目の前を、自分が横切って行くのを見たことがある。ただしスカートの半身だけだった。まだ十代の頃で、銀座の街中を歩いている時だった。ちょうどそのころ、自分の将来について考えつつ、相当一生懸命絵を描いていたのを覚えている。とても思い詰めていたので、感情体の何かがプッシュされて、具現化したんじゃないかと、思っている。感情体、精神体、霊体とあるんだから、たぶん一番物質界に近いところのエネルギー体の中の何かが、現実とまぜこぜになると、いつもとは違う化学反応が起こる。何だかそんな風に思えるのだ。
死の三日前。これは判るんじゃないか?我が家の猫が死ぬ三日前、我ら家族三人の一人ひとりのそばに一日中座っていたのである。つまり一人一日当てで、三人家族だから、3日目に他界したのだった。猫は死期が解るのだ。そして今思えば、母がいよいよと言う時に、自分は心の奥底で、判っていたように思える。判りたくなかったけど、判っていた。猫のこと、母のことが判るんだから、自分のその日だって解るんじゃないかと、期待しているんだけど・・・。シュンプウ先生みたいに徴(しるし)としてドッペルが現れるかどうかは、判らない。けれども、自分は自分の死ぬ日をきちんと察したい。きちんと死ぬ。つまり自分の所在について把握することは、生きているうちから、とても大切なことだと、ドッペルゲンガーは語っているのではないだろうか?
自分の死の日を察し、冷静だったシュンプウ先生はカッコいい。
モニカさんにもそれはきっとできると思います。
昔、ひどい脳震盪を起こした時、仰向けに倒れている自分を上から見た。
と、感じたことがあります。あれはドッペルゲンガーだったのか?
臨死体験みたいなものだったのかわかりません。
ただ、自分の置かれた状況がはっきりわかって印象に残っています。
外から自分を眺めること。それが自分の所在を確かめる方法だと実感しました。
ありがとう涼さん!先祖ともども、ちゃんと死ねたら、ありがたや。
それにしても脳震盪とは、大変でしたね。転落されたのですか?
倒れているご自分を見たの、それこそ幽体離脱ですよ。
衝撃でエネルギー体が一時的に脱離すると言いますか。
戻れないとあの世行きと相成りますから、良かったぁ!
ドッペルゲンガーは顔と顔を合わせて自分と出会う現象ですね。
シューベルトの「白鳥の歌」に「影法師」というのがあります。
ハインリヒ・ハイネの詩が音楽と相まって凄みが出て、
ドッペルゲンガーに出会った男の驚愕が詠われています。
苦悩に身をよじる男の顔が月明かりに照らし出されると自分だった!の恐怖。
ミュッセもドッペルゲンガーを書いていますが、こちらはメランコリックな対話という感じ。
でもね涼さん、ドッペル見て、あれ?っと思ったけど、恐怖はなかったですよ。
そういうものがあるってアートのお陰で判っていたからかなぁ。
シューベルトさんの頃よりは断然、潜在意識との対話が進んでいる。
そういう時代になったんですね。