天国編
天国編
どうやら終わりました。元旦に始まった神曲めぐり。天国編で面白かったのは、アヴェとエヴァです。ラテン語でAveはあいさつの言葉、Evaは命を意味します。Adamの妻Evaが知恵の木の実を食べて失楽園となり、楽園を取り戻したのはAve Mariaと称えられる聖母・・・つまりAveはEvaのひっくり返し説。おふざけみたいだけど、事実を考えれば示唆に富んでいます。Adamは土の意味、おつちです。こちらも意味深です。
期待していた天国編、肩透かしでした。神曲は長編詩、つまりはフィクションであることを忘れて、ダンテという詩人の目を通して垣間見る天国の真実みたいなところを期待していました。真実は、ちょっと違いました。
煉獄をめぐり終えて、案内役はヴェルギリウスからベアトリーチェに変わって、7つの惑星を巡って、キリストや聖母そして、すべての天使と聖人が神の愛に包まれている真の天上(原動天)へ到達します。ここでベアトリーチェは自分の居場所へ戻って、聖ベルナルドがダンテの傍らに現れます。聖ベルナルドに促されて、原動天を凝視するダンテでしたが、天国の美しさは筆舌に尽くしがたく、ダンテの神曲も終わりとなります。
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凝視をする。神曲は人が死後に行く世界の見聞録なので、見ること(知力)が愛すること(意志)に優先するというトマス・アクィナスの思想が基になっていて、ダンテもこの視点から神曲を書いています。アウグスティヌス(聖モニカの息子!)はこの考え方が逆で、愛することが優先するとしています。
修道会のひとつ、ドミニコ会がトマス・アクィナスの考え方で、フランシスコ会がアウグスティヌス系。そこでかつてドミニコ会とフランシスコ会は対立。神曲を読んでいて、ややうんざりするのがこの対立です。ダンテの生地フィレンツェの政権争いなどが歌の展開に絡んでいましたし、当時の世の中の派閥争いなども詳細な解説がついていました。
私がよく遊びに行っていた修道院ではお祈りの時「私たちの父、聖フランシスコ…」と、祈っていました。なのでアウグスティヌスが、愛を重視していたこと、ピンときました。聖ベルナルドも観想の中で直接、神と出会うこと、感覚の中で神を掴むことを重視しています。
神曲の話とは別に、霊視をしてこの世の行く末を見たという人の話を、聞いたことがありましたが、見た人の主観が入るので、霊視した事とこの世の実際の展開は、違ってくるんですね・・・パンデミックやアメリカの大統領選のことを霊視した人の話だったんですが、その人の見た事と現実とは微妙にづれていましたから、現実世界の先を見ようとすること・・・予言が当たるとか、当たらないとかで、物事を考えるのは危険なんだろうと判りました。
地獄編で、占い師たちが未来ばかりを見ようとした罪をつぐなうため、首を真後ろに捻じ曲げられて、悔悛の涙は尻の割れ目に落ち、もはや後ろ向きに進むことしか許されない場面がありました。そっか、やっぱり先ばかり見ようとしちゃいけないんだ。地に足をつけて今を生きることの大切さを思いました。
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