赤い悪魔
赤い悪魔
白の守護天使について書いたので、赤い悪魔について書かなければと思っていましたが、あの壮大な絵をパロディーで描く画力は自分にはないなぁと、思案投げ首状態で先延ばしになっていましたが、ついに取り組みました。あの壮大な絵、赤い悪魔が描かれているジャン・デルヴィルの「悪魔の財宝」です。ベルギー王立美術館の地下一階に展示されているのですが、私はこの絵の前に半日ほど座って眺めたことがありました。展示室は静かで、ほとんど誰も通りかからなかったので、独り占めで眺めていた又とない時間でした。独り占めと言っても、メフィストフェレスが言うように「まだ悪魔を抱え込む柄じゃない」のはもちろんで、絵とじっくり向き合って、悪魔の財宝って何だろう?と考えていたのです。
こちらがジャン・デルヴィル「悪魔の財宝」の原画です。大迫力!
アンデルセンのお話に地獄で7年、悪魔のもとで奉公をしたハンスが、地獄の塵を背嚢に詰めて地上に戻ってくると、中身が金銀財宝に変わっていたという場面があります。地獄の塵あくたがこの世の財宝なのかぁと、ウケてしまったのを覚えています。そしてデルヴィル先生の描く悪魔のお宝は、何と裸身で恍惚に浸る美しい男女の群れ。美の宗教と言われた象徴派の真骨頂です。悪魔の姿かたちにも、ひと工夫あって、悪魔の翼といえばコウモリなんですが、翼の先がタコの足に変化しています。タコ足の翼をひらめかせて悪魔氏は、お宝を広げて楽しんでいるんですが、お宝は長いマントの中から繰り広げられていて、そこは海の底なのですが、辺り一面、緋色に輝いています。遠景にはうっすらと海の青が見えていて、よくよく見つめていると、たゆたう男女の間に間に、サファイヤやルビーのような宝石が煌めいています。さらによく見つめていると、ああ、これは海の泡なんだと、思われました。悪魔の財宝、それは海の泡。愛と美の女神ヴィーナスは海の泡から生まれたという伝説がありますから、美しいものは海の泡からと、考えることもできますが、儚く消える泡みないなものこそ悪魔の宝、という危うさを描いているように見えました。神の不変の対極が儚い悪魔の宝、さすがデルヴィル先生の慧眼と、しばし感慨に浸りました。
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儚い美や恍惚に、人はなぜか惹きつけられてしまうもの。これはまったく抒情の問題だなぁと、思うのです。感情を制御できるようになる。これは人生の中ですごく大きな課題だと、思うようになりました。感情の制御ができれば鬱になんかならないし、想念をため込んで、身体を壊すこともありません。遠隔治療を受け始めて、自分が身軽になっていく過程をかんがみて、人の体を取り巻いているエネルギ―体層について解ってくると、なおさらそう思います。先日、南先生から、今月の機関紙159を頂いて、エネルギー体層についてとても解りやすいご説明が掲載されていました。感情と深く関わりのあるエネルギー体をアストラル体と言いますが、不祥事などに巻き込まれやすい不安定な領域と読んで、ああ、気を付けなくちゃと、思ったのでした。自分はまだこの辺りで、ひっからまっていると思えるのです。波動修正のお陰で、嫌なことを思い出しても、執着がなくなってきているのが解ります。それは、思い出してまた嫌だな~に浸ってしまうことが、減ってきたということ。これって本当にお陰様です。
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悪魔という存在も、人間が作り上げた負のエネルギーの影。だから本当はいない。いないのに執着しているのも、アストラルレベルに人類がどれだけたくさんの不祥事をため込んできたのかに、関わっているのでしょう。だから、もし、そこがすっきりしてしまえば、悪魔はもういない。きっと顔を出せなくなっちゃう。白の守護天使が光の輪だったことを思い出せば、悪魔がニヒルな二枚目の姿をしているなんて言うのも、アストラル体層に積み重ねられた虚像にすぎないことが理解できます。神界の方々が仮に、人のかたちに近い姿で現れるのは、そうじゃないと人が理解できないから。本当はきっともっと違う人知を超えた姿なんだろうなぁ。福音書には「顔と顔を合わせて出会う日が来る」と、書かれているから、きっとそのときはお姿を見られる人類たちになっているんだ。
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