アジサイ
アジサイ
子供の頃、庭に大きなアジサイの木があって、シーズンになると大きな白い花を切ってきて、銀の水盤に生けるのが楽しかった。その原風景からか、アジサイに親しみがあって、あの花を見ると安心する気がした。
安心する・・・子供の頃は、それがどうしてなのか知らなかったけれど、アジサイには浄化、祓いの力があったのだ。そのことを教えてくださったのは春水先生だった。アジサイは1年のちょうど折り返し地点、6月に咲いて、とりどりの紫色を帯びている。白い花でもどこかぼうっと青いようなニュアンスがある。紫色には物事を浄化する作用があるという。そう聞いても、すぐにはピンとこないで、ふ~ん、きっとそうなんだろうなぁ、くらいの感じだった。絵を描くのが好きなので、色彩にはパワーがあると、漫然と思っていたけれど、どういう風に?という具体的なことはよく解っていなかったのである。
それでも、アジサイの祓いには、興味があって、庭のアジサイを切ってきて、6月の16日に励行していた。庭が藪になって、アジサイも消滅して、数年の間、途切れていたけれど、昨年、再開してみた。すると、今までにないことが起こったのだ。
去年のアジサイは、全体に花が小さくなっていた。沙羅の樹の下に植え替えたら、日照率が低くなったせいか、花付きも悪かった。そして去年の6月16日は突然の真夏日に見舞われた。花が小さい、ギンギンに暑い日という悪条件が重なったせいもある。けれども過去、何度もアジサイを真南にぶらさげることをやって、こんなことは一度もなかった。
早朝、花を切って、しつらえをして、真南にセットする。これで来年の6月16日まで、アジサイに家の邪気を吸い取ってもらうんだ。どうぞ、よろしく。という感じで日々、眺めて暮らすんだけど、白い半紙の傘をかぶったアジサイは、猛烈なスピードで縮んでいく。え?こんなことって、あったっけ?と、驚いて見ていたけれど、夜には三分の一以下の大きさになって、みずみずしさのひとかけらもなくなっている。もしかして、こんなに我が家の邪気を、吸い取っているっていうこと? 私は内心、アジサイよりも青ざめていた。
次の日の朝もアジサイはしおれたまま、ぶらさがっていた。見るだに、やれやれという気がした。いっそ、取り下げてしまおうかと思ったけど、そのままにして勤めに出かけた。夜、帰宅すると、床にちり紙が落ちている。と思ったら、アジサイだった。白っぽい灰のようになっている。これは激戦をくぐり抜けたに違いない。我が家の邪気を、吸って吸って重くなり、床に落ちてしまったんだ。拾い上げると綿みたいに軽い。昨日の朝は、みずみずしい花だったのに。何だか神妙な気持ちになってしまった。
確かに、アジサイは我が家を守ってくれた。一昨年の嵐で屋根瓦の一部が飛んだりしていたんだけど、去年の嵐の時にはもろもろ、家の手入れをすることができて、無事に過ごしたし、吹きすさぶ嵐のさなか、藪をはらった庭を眺めると、植えた金木犀やアジサイは、嵐の中で両手いっぱい雨風を受けて、元気にしている感じだった。自然はこういう暴風雨の中でも、手放しで元気にしているものなんだ。人工物の中で生活せざるを得ない人間さまが、ただ、おたおたしているだけなんだなぁ。そんなことを考えながら、小さく縮んだアジサイの守りを想った。人間のおたおたぶりを見ているスピリットたち、あきれているかも知れないけど、見守っているのも事実。小さくなったアジサイは、居間の本棚のダンテの神曲の上で一年を過ごした。来月16日に、お疲れさまでしたの荼毘にふす。
モニカさんちのアジサイはとても一所懸命に働いている。
きっとアジサイはモニカさんのことを想っているのでしょう。
誰にでも同じようにするとは思えない。
家を見守ってきたので、全てを知っているのだと思います。
言葉がない分、秘めた力を発揮している気がしました。
アジサイさんにエールを送ります。
涼さんの繊細な感性こそ、咲く花のようです。
植物とか、石とか、寡黙なんだけど、自分さえ良ければ的な自意識がない分、
ちゃんと神様時間を生きている。
特に植物はその薬効や美しさで、世界に奉仕しているそう。偉い、本当に。
そして、涼さんのおっしゃるように、想ってあげる。気をかける。
これは双方にとって、すごく大切なこと。それを忘れると藪になるんだ、きっと。
アジサイの紫について書いていたら、白色光について、思い出しました。
次回、その辺り、行ってみたいと思います。ヨロシク!