夜咄・その2
夜咄・その2
母親の首をねじ切った娘がどうなったのか?これがさっぱり判らないところが、伝説の伝説たる由縁である。この伝説というシェーラザードは、話を終いまで話さないうちに、勝手に眠ってしまって、話のオチが立ち消えとなってしまうのである。
それでも私には、なぜ、娘が母親を殺したのか解る気がする。自分の運命を産み落とした気に食わない母という名の女がいる限り、自分は自由になれないと、思い込む。ここから始まって、次は母親も、自分に憎悪を注ぐ娘に危機感を抱く。我が子の性格に問題ありと判断した場合、病気をでっちあげて、そのせいにしてしまうのが手っ取り早い。もっと重度の場合、つまり危機感が強い場合、気違いにしてしまうのが順当だ。そうして双方とも、なぜ自分たち親子は、親子に生まれたのかという一番面倒くさい問題には向き合わずして、お医者さんや薬まかせにして、治らないままほったらかして、課題をクリアすることは、さぼりにさぼって生き延びる。これがよくある親子のしがらみだ。
けれども親殺し、子殺しにまで発展してしまうのは、よっぽど何代にも渡って未解決のまま、持ち越された課題がある場合だ。南先生も、いつまでも解放されないこのての感情体の確執についてご本で言及されている。そして憎悪の根底にあるのも、実は愛、もっというと愛の仲間である性愛エネルギーの延長だ。ひどい暴力というのも、この延長路線と考えられる。
恥ずかしながら、自分もこうなるところだったと思ってしまう。この女(母)がいるかぎり、自分は決して解放されないだろうという地獄に、自分で自分を投げ込んで苦しんでいたからである。しかしある時、親子というのは自分がこの世に転生して、自分の課題をクリアするために、一番適した環境を与えてくれるんだけれど、生まれてしまったら、それほど関係ないのだと、ジュワルクール師が語っているのを読んで、ピンときた。両親と自分は、ほとんど接点がない。自分で自分を地獄に入れるほどの確執など、じつはなかったのだと考えられるようになって、私は自由になった。そして母が死んだとき、人生は本来、喜び以外のなにものでもないことが解った。母が亡くなった日から一週間、肉体から解放された喜びが、私の上にも降り注いだから。母と私はこの瞬間のために親子だったのだ。
地獄を作るのは自分だ。自分で自分の感情にひっからまって、脚を取られて起き上がれなくなる。地獄に自分を入れてしまうのも、偏った思考回路にしがみついているからで、そのしがみつきを手放して、感情の泥沼も無視すると、全く新しい地平線を見ることができる。親を殺す必要も、自分を地獄に閉じ込める必要もない。人生の根本は喜びだ。この宇宙を生かしめているエネルギーが喜びだと、思い出せるようになる。
シュンプウ先生の伝説には、オチがなかったけれど、子孫の私が親殺しを理解する、ここがご先祖話のオチ。ということにしたい。

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