剣と薔薇
剣と薔薇。このふたつがひとつになる。そしてまた、ふたつになる。じつはこのとき一度、みっつになる。そしてそのみっつが、さらにひとつになる。これが私の心の中で起こったことだった。私が介護の時に振るった暴力を「甘え」と、理解したときに。
剣=闘う心。薔薇=愛。愛と言っても、情愛ではない。もっといつもと違う、人を高みに導くような、上から注ぎ込まれる感情と言えばいいのだろうか。苦しみに直面した時、逃げに走らなければ、この手の感情が注ぎ込まれることがある。
どうしてなのか? エネルギー体について判ってくると、これがとても解りやすい。人の体のすぐ近くを包んでいるのが感情に関するエネルギー体で、そこには過去からの有象無象が蓄積されている。過去と言うのは、過去生も含めてと、視野の地平線を広げてみると、さらに理解が進む。
ネガティブな感情に捕らわれて、いつも同じパターンにハマるのは、感情のエネルギー体に蓄積されているパターンがあるからだ。でも、そこに気が付くと、あ、これは違う!と自分で判るようになる。これはパターン、つまり型なんだから、もう型にハマるのは止めればいいと、なる。波動療法の南先生がおっしゃる「そんなこともあったなぁと、流していくんですよ」というところなのだ。
私は剣を抜いて、目の前の敵を切り倒せば、前に進めると思っていた。戦いの人だった。でもその生活のあまりの苦しさに倒れた。すると剣の対極に薔薇を見た。これが戦いから一致への始まりだった。敵との戦いは自己との闘いに変わった。もちろん、すぐに変革が起こったわけではない。介護の嫌悪に泣き叫び、ボケ老人となった祖母への怒りに、無能な母への呪いにもがき苦しんだ末だった。
剣と薔薇がひとつになって、そのひとつがまたふたつになる。ここから自己との闘いが始まった。そのふたつがみっつになるのは、要素がひとつ加わるから。それは死だ。祖母の死ではなかった。私の死。古い私が死んで剣と薔薇が一致したとき、私は確かに人生の新しいステージに立った。より良い状態に変わっていけることは恵みだと、南先生は教えてくださった。けれどもすぐに、苦しみがなくなるわけではない。私は、20年の自殺的歳月の中で、自己の再生と死を繰り返しながら、 皮膚の下には炎症の原因を蓄積するネガティブなあれやこれやを携えながら、進んできたのだった。
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