沈黙
沈 黙
黙想の家で、黙想会に参加すると、一泊二日の間、沈黙の中で過ごす。廊下で誰かとすれ違っても、沈黙なので目礼さえしない。だから逆にその場の波動が伝わってくる。話しをするよりも直接的に、そこにいる人や状況が判る。もちろん、それを無視する。お互いさま応えないのだから。
与えられた部屋で、あるいは図書室や庭の木々の下で黙想する。黙想する人は、そこかしこにいる。そしてみんな沈黙している。
黙想する。神について考えるために。けれども私は、沈黙の意味、沈黙が語るもの、沈黙とは沈黙ではないことを体感していた。沈黙は話すことよりも、はるかにエネルギッシュに思われた。そのエネルギーは私を元気にするようだった。無駄話をすれば、気が晴れるだろう。憎らしい奴の悪口を言えば、すっきるするかもしれない。しかし沈黙の方が、はるかに効くところがあったのだ。
もし、誰かと二人でいて、何も語らず、何もせず、沈黙の中に佇んで、違和感がなければ、そこには調和がある。沈黙は高いオクターブの調和だった。
沈黙から受けるエネルギー、情報には時に言葉以上であることは僕も感じます。
数年前、岩島忠彦神父のクラスで黙想の家のことを教わりました。
参加はしませんでしたが、黙想の重要性に気づく良い機会でした。
言葉のない人、生命との関わりでも色々気づかされることが多いです。
今回モニカさんからお話を伺えて嬉しく思いました。
涼さんも岩島神父様の講義、受講されたんですか?
私も受講したことあります。
神父様のHPには、遠藤周作の「沈黙」の随想がありました。
スコセッシ監督が「最後の誘惑」のリベンジで「沈黙」にチャレンジしたイキサツでした。
周作先生も、スコセッシ監督も20世紀の人だなぁと思います。
沈黙のエネルギーを直接に生きている我々は今、21世紀に居る。
新しい世紀における理解のスピードを、緩めてはいけませんね。
岩島忠彦神父のキリスト教入門講座に2018年4月に参加しました。
しかし、5月からは参加していません。
岩島神父の講義はとても良かったです。
講義の後は先輩たちと語り合いました。
続けられたなかったのは残念ですが、意味のある時間を過ごせました。
黙想の家での沈黙は体験したかったのですが、諦めました。